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収拾する気ゼロです すみません

突然ですが 歌野晶午の新作「絶望ノート」を読みました。

さすが、作品の好き放題ぶりには定評のある最近の歌野晶午、
驚くほどの 「テメエこのヤロウ」感!(ほめています)

今回の新作は 「いじめられっ子の日記」 という形式でしたが、
読んだことを後悔するレベルの後味の悪さも
読み途中の何とも言えないささくれた気持ちもいつもどおりで(ほめています)、
「そうか こう来たか そりゃこう来るよな でもマジでこう来たかこんにゃろう」
というのが 読み終えたゆがみの正直な感想でした。
ひどい。素晴らしい。(何度も言いますが ほめています)


ところで、今回ふりかえって はたと気付きましたが、
歌野晶午って 物語の枠(形式? 構成? 設定? 何て言えばいいんでしょう、とにかくそんな感じの。)を話のトリックに組み込むのが 何気に非常にうまいんですね。


作品によっての巧拙はあるので、うまいって言うとちょっと違うんですが、
常にがっぷり四つに組んでるっていうか、
「枠」によって生まれる要素を 話のトリックにフルに使いきっている感があります。

この場合、トリックってのは単に事件のトリックとかを指すわけじゃなくて、
何て言うか もろもろひっくるめて読者に「テメエこう来たか」と思わせる部分。
いわゆる叙述とかも多分これ。

ほかの作者の作品でも 少なからずそういう部分はあると思うのですが、
歌野作品では そのトリックと「枠」の関係が とびぬけて強い感じがするのです。


というわけで、歌野作品の「枠」のことを もうちょい深く考えてみるために、
ちょうどゆがみが同じ日に読んだ
有栖川有栖の短編「あるいは四風荘事件」の場合と比べてみようと思います。

(有栖川有栖の方はシリーズものの一作品なので、本当は比較するもんでもないのですが
 とりあえず とっかかりとして提示させてください)


ここから先、ネタばれはしてないと思いますが、
話がイヤな方向へ濃くなるのでご注意ください。



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2009年07月04日 未分類 トラックバック:0 コメント:0